リハドクターKのたわごと

医学医療への雑感を書き記します

私がリハ医になった理由

私の医者としてのキャリアは整形外科医として始まった。

 

 

 

 

最初の3年間はとにかく仕事を覚えることに没頭した。ほとんどが雑用だったが、雑用することが仕事を覚える第一歩だと割り切っていた。最近の若い医者は雑用をしたがらない。雑用を通していろんな業種の人とうまくコミュニケーションをとることこそ本来必要なことだと思うのだが、、、。最初の1年はひたすら仕事に没頭し、年間で休みは3日しかとらなかった。次の1年は20日くらい、3年目でようやく50日くらいとれるようになったような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次の3年間は仕事を覚えて、いろんなことができるようになったので、楽しい時間だった。手術も救急患者の処置も一通りなんとかこなせるようになったので、肉体的につらい時もあったが気力でカバーできるような充実感があった。

 

 

 

 

しかし医者になって7年目。仕事に対しての疑問と虚無感が自分を襲ってきた。急性期病院に勤めていると、『在院日数』というものにより、手術が終わった後の患者さんや救急治療が終わった患者さんを早めに退院させなくてはいけないのだ。手術が終わってどんなに動けなくても、どこかの違う病院に転院させたり、施設に入所させたり、患者さんが動けまいが、言葉は悪いが『追い出さなければ』いけないのだ。ある高名な医者はこういった動けない患者を不良債権と言っていた。この言葉も許せなかった。

 

 

 

『これ流れ作業だ。』

 

 

 

ふとそう思った。

 

 

 

そう考える日が続いた。『流れ作業』から脱却したい。この『不良債権』と言われる患者さんを少しでもいい形で生活させたい。もしかしたら時間をかければこの『不良債権』と言われる患者さんも『優良債権』になれるかも?という気持ちも起こった。その見極めをする医者が必要ではないか?と思った。しかし、そういったマネージができる医者はあまりいない。少なくとも自分が所属する医局でできる人はいないし、近隣でもそういった医者は見当たらない。

 

 

 

 

 

 

どうしたらいいだろう?と考え、大学時代の友達に相談した。

 

 

 

リハビリテーション科というのがあるよ。慈恵とか横浜とか北海道とかが有名だよ。』

 

 

 

 

  自分の県には困った患者を管理できる医者がいないのがとてつもなく悲しかった。だから、自分が道を切り開こうと思った。

 

 

 

 

自分の生まれ故郷を離れ、横浜にリハビリテーションの勉強を始めに行った。横浜に行ったことはその後の仕事においてとても素晴らしい経験をさせていただいたいい時間だった。

 

 

 

 

大学別にリハビリテーションに関する考え方は違う。横浜市大の考え方は自分にはあっていた。それは今に至るまで変わらない。それは何よりも『予後予測』を大切にし、それに至るまでの逆算的過程を徹底的に行う姿勢だ。