リハドクターKのたわごと

医学医療への雑感を書き記します

医療の『隙間』

先週の土曜日、4月15日。

 

西村元一先生と村上智彦先生の対談する会が豊洲の『マギーズ東京』で行われたので参加させていただきました。

 

この対談だけはどんなに忙しくても、どんなに予定が詰まっていても絶対に行かなくては、という思いでした。実際いくつか予定が入っていましたが、それらを全てキャンセルして豊洲に向かいました。

 

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西村元一先生は金沢赤十字病院の消化器外科の先生。自らが胃癌にかかってしまい、医者としての立場と患者としての立場のズレ感、そして患者が本当に望んでいることをいろんなメディアや本を通して世の中に問いかけている先生です。

 

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村上智彦先生は破綻した北海道夕張市などの医療を変えていこうとしていて、いろんなパッシングなどに耐えながら地域医療を推し進めている理念の強い方です。2年前から急性骨髄性白血病にかかってしまい、骨髄移植などつらい治療に耐えながら今年の2月に退院されました。

 

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進行性の胃癌と戦っている医者と白血病と戦っている医者との対談です。

 

患者側から見た医者というもののあり方、そして患者が本当に欲していることってなんだろう?ってことが実体験からのお話だったので本当に胸が熱くなりました。

 

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最後の方で村上智彦先生がおっしゃった言葉がとても印象的でした。

 

今の医療は専門職が多くて、いろんなことができるようになってはいるものの、その分だけいろんな『隙間』ができやすい。誰もやってくれないことがあり、それが実は患者にとっては重要なことかもしれない。

俺はこれの専門だからこれしかやらない、

私はこの専門だからこれしかできない、、とか。

 

でも患者にとってはそのような隙間が実は重要でその隙間を埋める人が絶対に必要なんだ。

 

 

というような内容のことをおっしゃっていました。地域連携だなんだと連携とか専門性だとかを言っている方がいますが、重要なのは専門性とかでなく、やれる人がやればいいんだ。とやかく言わずにその『隙間』を少しでも埋められるようにみんなで行動していけばいいんだということかもしれません。いろんな意味で勉強になった対談でした。

患者の気持ち

自分も病気をもっているため、医者であり患者でもあります。知り合いに医者がたくさんいるので、ことあるごとにいろいろアドバイスをいただいて、検査をしてもらったり薬をだしてもらったりしていて、その点で『患者』としては恵まれているかもしれません。

 

体の異変に気付いたのは6年くらい前。4年前くらいが一番きつかったけど、今は比較的落ち着いています。

 

でも春先のこの時期が四季の中で一番つらいのです。冬場の寒い時期よりもはるかにきついです。体のだるさの日差変動はひどく、調子がいいと思ったら次の日は起き上がるのもきつい時もあったりします。

そして猛烈な体の痛みに襲われ、ロキソニン攻撃でかわしながら仕事することもあります。

 

体と心は連動していて、体の調子が悪いと心もすさみます。ちょっとした言葉一つで気分が悪くなりやすくなったり、場合によっては他の人に悪態を晒したりしてしまいます。言ってしまったり、態度に表してしまったあとに後悔するんですけどね。

 

病気になっていろいろな苦悩に陥った時には、そのひとの気持ちはその人にしかわからないものです。

 

『君の気持ち、よくわかるよ。』なんて言われても、『あんた、この病気になったことないだろ。なんでわかるんだよ。』と思うにすぎません。病気である自分を認め、そしてそんな中で何をしていくべきかを考えるまでには相当の時間が必要なのです。そのためには医療者を含め周りの人々は一定の距離感でその人を支え、話を聞いてあげるということが必要なんだと思います。

 

『あなたをずっと見ているし、支えているよ。』というさりげない気持ちが一番必要なのかもしれません。

 

一番難しいのは、その『一定の距離感』なんですけどね。

 

 

くじけそうになった時、『こち亀』の両さんのこの言葉が心にしみます。

 

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う◯ちの海を泳ぐ人

看護や介護をしていると『う◯ち』がらみのことがとても多いものです。

 

ある朝のこと、個室に入院していた認知症のおばあちゃんが、個室の中のトイレに入りました。

 

トイレに入ったのはいいものの、便器の中にう◯ちをせずに、トイレの床にう◯ちをしてしまいました。その後、おばあちゃんはう◯ちをしたのちにバランスを崩してしまい床に転げてしまいました。

 

その後、おばあちゃんはう◯ちの散乱した床の上でローリングするは、クロールをするは、まるで『まるでう◯ちの海の中を泳いでいる』ようだったとのこと。

 

夜勤がそろそろ終わりつつある看護師さんが、そのおばあちゃんの朝の検温に回った時に、トイレの中で『う◯ちの海を泳ぐ』おばあちゃんを見かけた時に、

 

『キャー』と発狂した声が病棟に響きわたったとのこと。

 

もうすぐ夜勤が終わるかという時に、う◯ちだらけになったトイレの掃除をしたそうです。身体中、う◯ちくさくなり、履いていた靴は処分したそうです。

 

おばあちゃんもわざとやったわけではないのですが、医療介護現場は予想もつかない修羅場?だらけです。こういったことが続くと心折れて離職してしまう方も少なくありません。それでいて看護職介護職は給料に見合っただけの収入を得ているとは言い難いのです。

 

少しでも看護職介護職の給料が上がりますようお上の方はご配慮いただけたら幸いです。

 

 

話が話なので今回は画像はいれません。

頸髄損傷 最近の傾向

頸髄損傷とは、、、

 

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『首の神経が切れて』と言うのはちょっと言い過ぎで、『首の神経が痛めつけられて』というのが適切かもしれません。

 

頭を強く打ったり、首が強い力でひねられたりすると首の骨が折れたりして、脳から繋がっている首の神経が圧迫されて痛めつけられます。

 

 

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首の神経は手や足の動きに大きく関わっているので、ここをやられると手足の動きが悪くなります。かなり強くこの神経をやられると最悪で手足の動きが全くできなくなるとか呼吸に関わる神経もやられるので、死亡することもあります。

 

そしてこの首の神経をやられると今の医療では手足の動きの悪さがかなり残像するケースが多く、車椅子生活や寝たきり生活を強いられることも珍しくはありません。

 

ひと昔前は交通事故や労災事故やスポーツなどで頸髄損傷になる方は若者がメインでした。若者は体力があるので、訓練で手足が不自由でも頑張って頑張って車椅子で移動や身の回りのことがあらかたできるくらいまで行く人も多く、人によっては車椅子バスケットボールなど障害者スポーツなどを行う方もいます。また星野富弘さんのように手足が動かなくても、口で立派な絵画を書かれたりします。

 

今は少し事情が変わってきました。最近の頸髄損傷の多くは高齢者になりました。ただ高齢者の交通事故や労災事故が増えたと言うわけではなくて、『高齢者の転倒』が増えたのです。

 

高齢者は頚椎ヘルニアや後縦靭帯骨化症などいろいろな要因で首の神経の通り道(脊柱管と言います)が狭くなります。頭を強く打ったりして強い力が首にかかると、首の神経が周りの骨(頚椎と言います)や椎間板に圧迫されやすくなります。そうすると首の神経を痛めやすいのです。

 

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結構多いパターンが酒で酔っ払ったおじいちゃんがふらついて転倒して、頭を床に強く打ってしまい、その後に手足が動かなくなってしまったと言ったケースです。

 

手足の動かなさの程度にもよりますが、高齢者が頸髄損傷をきたすと、高齢者は予備体力が低いのでやれることが限られます。その後の日常生活において介助がかなり多くなり、寝たきりになる方が少なくありません。

 

『酒飲んで転んだだけなのに、、、』

 

と後悔しても遅いことが多々あります。今までピンピンしていた方が一瞬で動けなくなるのは悲劇以外何ものでもないです。

 

 

高齢者を見ていると症状がなくても、首の神経の通り道が狭い方は多いです。特に男性。ですので首に違和感があったら、整形外科でレントゲンを撮ってもらったり、場合によりMRIなどで自分の首回りのことはチェックしてもらったほうがいいと思います。

 

もちろん転倒にも注意してください。くれぐれも酔っ払ったあとはふらふらしませんように。

 

 

『リハビリテーション』とは?⑤

リハビリテーション』を行う上で、やはり『リハビリテーション』の専門の医者は必要と思います。

 

自分自身が『リハビリテーション医』なので、それを否定してしまうと、元も子もないのですが。

 

リハビリテーション医にとって何が一番必要なのか?とある先生に質問した時にこう答えてくれました。

 

リハビリテーション医の生命線は「予後予測」だよ。』

 

こう答えてくれたのは、元横浜市総合リハビリテーションセンターセンター長の伊藤利之先生でした。

 

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前にも書いたように、病気や怪我を来したのちに、『元どおりになる』方もいれば、何かしら『後遺障害』を残す方もいます。

 

 

どれだけ『後遺障害』を残しそうか?

 

どれだけ『訓練』すれば、どこまで改善しそうか?

 

『後遺障害』を残した時にどのような生活をおくれそうか?どんな社会制度を使えばよりよい生活を送れそうか?

 

本人の希望に近いことがどのようにすれば達成できそうか?

 

などを考えていきます。

 

ある意味、『あなたは頑張っても元のようにはなりません。』と冷徹に宣告しなければいけません。

 

でもどこかで『闘病』との決別をして、『病気や障害との共存』をして新たな生活をしていって欲しいと思うのです。

 

『治りたい、治りたい。』とずっとずっと『訓練』にこだわる方もいます。このような方を非難するつもりはありませんが、ずっと『自分と戦う』より、『自分を受け入れて』楽しみを見つけながら生活したほうがいいような気がします。人生は短いですから。

 

『自分を受け入れる』ことは難しいと思いますが、そのお手伝いをしていくのが、『リハビリテーション医』の役目なのかもしれません。

 

 

『リハビリテーション』とは?④

リハビリテーション』ってやってもらうものなのでしょうか?

 

よく病院とかで、患者と看護師の間でこんな会話が繰り広げられます。

 

 

 

患者 『看護師さん、車椅子でトイレまで連れてって下さい。』

 

看護師 『○○さんはもう歩いてトイレに行けるでしょ。一緒についていくから歩いて行きましょう。これも自宅に帰って一人でするための訓練ですよ。』

 

患者 『えぇ、入院している時くらいいいじゃないか。こっちは金を払ってるんだ。それくらいサービスしろよ。』

 

看護師 『、、、、、』

 

 

自分でできることをやってもらおうとする輩って結構多かったりします。それに看護師を召使いだと思っている輩も多かったりします。

 

調子が明らかに悪い時には手伝ったりすることもありますが、調子が良い時でも『できることを自らしない』方って結構多かったりします。

 

 

患者側には『やってもらって当然』『やってもらわないとクレーム入れるよ。』的な方が結構多かったりします。

 

一方、医療側でも、『頼まれたらやってしまう』と言う方も実際に多かったりします。

 

 

『過依存』と『過保護』の関係

 

まずこの関係から逃れないといけませんね。なんのために『訓練』をしているのか?

 

家に帰るため

 

好きなことをするため

 

自分の身の回りのことをなるべく自分でするため

 

 

でしょう。

 

自分で自分を律するようにすること、それが『リハビリテーション』のような気がします。

 

過度の『やってもらうこと』『やってあげること』はリハビリテーションの阻害因子にすぎないと思うのです。

 

 

 

もうスイカの季節が来ているんですね。

先日いただいた熊本産スイカ。

甘くて美味しかったです。

 

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『リハビリテーション』とは?③

急性期病院で病状が落ち着いたものの、いろんな障害が残った場合、こう言われることが多いと思います。

 

『急性期での治療は終わりました。あとはリハビリ次第です。でもこの病院ではリハビリはできないので、リハビリできる病院に転院してください。』

 

この言葉にも違和感を感じます。

 

リハビリテーションは『訓練』や『練習』や『療法』だけのことではないことはすでに説明しました。

 

急性期の治療の段階からすでに『リハビリテーション』は始まっているのです。動けない時期から今後の生活を見据えた上での『訓練』や『ケア』が必要です。例えば関節が硬くならないように可動域訓練をするのはまさに急性期にいるうちにこそ必要です。そして『誤嚥性肺炎』を防ぐためには口の中を綺麗に保つ『口腔ケア』などか必要です。そして必要以上に『安静』にしすぎないことも『リハビリテーション』なのです。

 

急性期病院にこそ、リハビリテーションに理解のある医者、看護師、療法士などが必要なのです。

 

『あとはリハビリテーション次第です。』ではいけないんです。

 

『われわれとしてはできうるリハビリテーションをしてきましたが、さらに今後を考えた上でのリハビリテーションが必要です。』

 

と言えるような世の中になれば、明らかに日本の医療は変わるでしょう。『リハビリテーション』とは病気を診るものではなく、人間を診るものであり、『その先』を考えるものであると思うのです。