私が医者になろうとした理由 パート3
- ●県についた頃、熱は37.9度くらいまで下がっていた。少し体も楽にはなっていた。だけど頭はぼ~としていた。
ホテルに入り、近くのレストランで食事を済ませた後、速攻で寝た。勉強なんぞしてる余裕すらなかった。
次の日、、
朝6時に起きた。熱は37.1度まで下がったが、とにかく頭がぼ~としていた。
受験会場に入った。しかし、頭はぼ~として周りを見てる余裕もない。しかも、緊張すらしてない。当時思っていたことは、
『早く終わんないかな』
という思いだった。
試験は2日間であったが体調は悪かった。頭はぼ~としていて、試験の内容はほとんど覚えていない。目前に現れた問題を何となく解いていたことしか記憶になかったりする。そういえば、試験の終わりごろに外で雷が鳴っていたことだけは覚えている。
これじゃあ、受かるわけないよな、と思い、受験結果を知らせる『電報サービス』は頼まなかった。
数日後、第1志望大学の受験結果を実際に見に行った。
『もしかしたら』という思いあ多少あったからだ。
しかし、、、、、、私の受験番号はなかった。
無謀と思っていてもやはり少しショックであった。
第2志望はもっと無理だよなと思い、『予備校どこにしようかな?』と来年のことを考え、パンフレットを見ていた。
第2志望校の合格発表は新聞で確認しようと思い、合格発表日の次の日の新聞を待っていた。
『ま、どうせ受かってないだろうけど。』とやや卑屈な思いで新聞を待っていた。
『どれどれ、、、、、えっ!!おれの名前が載っている!!!』
自分も驚いたが、両親は唖然とした顔をしていた。
学校の先生から電話があり『めちゃくちゃ奇跡だね』と励まし(?)の言葉をもらった。
体調万全でうけた試験には落ち(もともと無謀ではあったが)、体調最悪で受けた試験には合格。
人生とはわからないものである。
なにはともあれ医者の一歩を踏み出した。
私が医者になろうとした理由 パート2
私の『医者になろう計画』は無謀こそあれ、不可能ではないかも?という漠然たる思いがあった。
とにかく受験まで7カ月しかないわけで、どうしたらいいか?
ひたすら反復学習をすることだと考えた。
リハビリテーションにも言えることだが、リハビリで効果を発揮するためには『運動学習』が必要であること。この運動学習さえうまく修得すれば、その後の予後に大きな影響を及ぼす。
とにかく教材は絞りに絞った。
国語:旺文社のラジオ講座のテキストのみ
数学:学校から配られる大量のプリントのみ
英語:名著『英文解釈教室』『英語構文詳解』、桐原書店の『英熟語の本』
これだけを何度も何度もやった。特に数学は学校のプリント以外やる余裕がなかった。
このプリント、中身が凄い。
アイドルオタクの30代半ばのロリコン教師が作ったものだが、めちゃくちゃ問題のセレクトがうまい。へたな参考書や問題集をやるよりこっちのほうが何倍も力がつく代物だった。ロリコン教師の趣味で当時人気があった西村知美の写真が各所にちりばめられたプリントではあったが、、、、ヾ(@°▽°@)ノ
同じ教材を少なくとも30回以上はやった。理科と社会は共通一次(今でいうセンター試験)と二次試験用の過去問しかしなかったというより、できなかった。
ただ世の中はそんなに甘くなかった。受ける模擬試験はすべてD判定かE判定。特に屈辱的だったのは11月に受けたS台模試の物理で生まれて初めて『0点』をとった(>_<)
さすがにこの時にはへこんだ。
そのまま共通一次試験に突入するも、自己採点では第1希望、第2希望の大学とも『D判定』
予想通りの展開であった。
学校の先生は『進路変えたほうがいいよ。』とアドバイス(?)してくれたが、あきらめが悪い私は強行突破した。
そして運命の2次試験に突入したのである。
第1志望校の2次試験は体調万全、しかも面白いように問題が解けた(と思われる)。『もしかしたら』という思いをもちつつ、5日後の第2志望校受験の準備に入った。
ところが、
第2志望校受験の前日、38.7度の熱発!!!しかもその日のうちに第2志望校のある現地に入らなくてはいけないの体がだるくて仕方がない。自宅から現地まで電車を乗り継いで2時間。
子供のころから世話になっている小児科の先生の所に行き診察を受けて、風邪と診断された。
『今日はゆっくりしてくださいね。』と小児科医。
『先生、明日受験で今日に●●県まで行かなくてはいけないんですよ。』と私。
『ちょっと無理じゃないか。熱も高いし。』と小児科医。
『無理だとわかっててもとりあえず受験にはいきたいんです』と私。
『とりあえず点滴と抗生剤、解熱剤を出しとくけどつらかったらすぐ近くの医者に行くんだよ』と小児科医。
そして点滴を打ってもらった。熱はあまり下がらなかったが、この点滴のおかげで体はだいぶ楽になった。この点滴は私の中では『魔法の点滴』だと思っている。
そして新幹線に乗って●●県に向かった。
続く
私が医者になろうとした理由 パート1
くわばたりえというお笑い芸人が、『100%治せないと、病院が言ったらあかんちゃう?』とテレビで発言していた、と聞いてふと自分の昔のことを思い出したので書いてみようと思います。
私の生まれ故郷は群馬県太田市。太田市と聞いてピンと来るのは、よほど車が好きか、風俗が好きな方くらいしかいないのではないだろうか。
群馬県太田市は私が高校生のころは北関東一の風俗街を持つ地であり、そしてレガシーやフォレスターで有名な『SUBARU』のお膝元なのだ。
そのため私自身『SUBARU』に対する思いは強く、だから地元で働くことを前提に考えていたので『将来はSUBARUに勤めたいなあ。』と考えていました。
数学がそこそこ点がとれたこと、理系は就職に有利ということもあり、漠然と自動車の設計士になりたいなあと考えていました。そのころの志望校は自宅から一番近い大学・群馬大学工学部でした。
とりあえず合格圏内にはいるかなあ、と高校3年の夏休みくらいまでは余裕をかましていました。
理系でしたが私の得意科目は『国語と社会』。特に哲学が好きでニーチェやショーペンハウエルなどを読んでいました。ただかなり大きな世界の話なので、あまり理解はできなかったし、哲学は就職先がないと聞いていたので、大学で学ぶ気はあまりありませんでした。これは自分の家が貧しかったので、まずはしっかりと就職してお金を稼がなくてはいけないと思ったからです。
そんな高3の夏の日。ある本のあるフレーズが私の人生を変えました。中学時代の恩師から『この本、おもしろいから読んでみてみるといいよ』と渡された1冊の本。
『医者の話だけど、この本を読んでみて、お前なら何か感じるんじゃないか?』
と恩師は私が哲学好きだから、その中で何かを感じることを期待してくれたのかもしれません。
この本の中に強烈なフレーズが満載でした。そうちの2つを紹介します。
『医者は本来殺し屋なのだ。人間だれもが避けられない死をいかに納得させるか、その手伝いをする仕事なのだ。』
『医者は患者を助けてなんかいない。助かったのはその人たちに助かる力があったからだ。医者はその生命力に力をかしているだけだ。』
この二つのフレーズは私の全身をかけぬけ、稲妻が走ったかのような衝撃を覚えました。
医者?
いままで考えたことのない仕事が心の中に入り込んだ。
『医者って人を長生きさせる職業だろ。』とそれまで医者というイメージはそれしかありませんでした。ただこの二つのフレーズは自分の中の基本的な部分をなぜか壊して、新たなものを作り出す原動力となりました。
気がついたら工学部から医学部に進路を変更していました。
続く
日本のリハビリテーション病棟の現実
今、日本ではリハビリテーションを入院で行う場合、『回復期リハビリテーション病棟』というところに入院するのがメジャーである。
脳卒中や下肢メインの骨折、肺炎や手術などにて筋力低下が著明な方が入院対象になります。
日本には数万床の回復期リハビリテーションのための病床があり、群馬県にも2000床くらいの回復期リハビリテーションのための病床があります。うちの病院でも60床の回復期リハビリテーション病棟があります。
群馬県内にはおそらく30近くの病院が回復期リハビリテーション病棟を持っていると思われます。群馬県内のリハビリテーション専門医は37人。そのうち回復期リハビリテーション病棟に関わっているリハビリテーション専門医は5人でした。そしてその5人のうちに『きちんとした』リハビリテーションの教育を受けてきたリハビリテーション専門医は2人でした。
要するに群馬県内では少なからずリハビリテーションと関わって来た医者で回復期リハビリテーションに関与しているのは30病院中5つだけなのである。おそらく『まともな』リハビリテーション処方箋をだせるのは2.3人だろうと思います。
残りの25以上の回復期リハビリテーション病棟を持つ病院はどうしているの?
みなさんはどう考えるでしょうか?
答えは内科や整形外科の先生が片手間に適当な処方箋をだして、あとは理学療法士や作業療法士に丸投げな状態なのです。群馬県に限らず、全国各地でリハビリテーションを専門としない他科の先生が片手間で行なっているのが現状です。
整形外科の先生に脳梗塞を治療してくださいと言われてもさすがにできないですよね?
眼科の先生に胃がんの手術してくれ、と言われてもできないですよね?
でもなぜか、リハビリテーションは他の科の先生でもできちゃうって思われているから、なんだかなぁって思います。だからまともなリハビリテーション病棟は少ないんだろうな、と思っています。
そもそも他科の先生でもリハビリテーション病棟は運営できちゃうって考えられているから、こんなにリハビリテーション病棟が多くなり、質の劣化が著しいんでしょうね。
学会に頻繁に参加する医者ってどう思う?
学会に頻繁に参加する医者ってどう思う?
って一般の方に聞くと、
『勉強熱心な先生ですね。』とか
『最新の内容を取り入れる立派な人』とか
そんな答えが返ってくるでしょう。
個人で開業している先生方がたくさんの学会に出られることは、自分の数少ない休みの日を削って参加されているので尊敬に値すると思います。
でも、勤務医の場合には仮に普段の日に学会にたくさんの医者が参加していたら病院はどうなるでしょうか?
当然ながら残っている病院の医者は少なくなりますよね。
だから病院を稼働させるためには誰かが残って病院業務をする必要があるわけです。
頻繁に学会に参加する人と同僚で働いていたらどうなると思いますか?
当然ながら残された方は学会に頻繁に参加される方の分の仕事までしなくてはいけなくなるわけです。
遠い昔、ある分野で有名な方と働いていて、頻繁に学会に参加していて、残された私たちはそのかたの分まで仕事をしなくてはいけませんでした。海外学会に行ってしまうと1週間くらい帰ってこなかったりするので、たいへんでした。
やはり平日の学会参加とか研修会参加は平等にすべきだと思います。『俺は発表したり、シンポジウムにでるから』と言う理由だけで、ある人は頻繁に行き、ある人は行けないというのはいけないと思います。
学会に頻繁に行っている医者は基本的にあまり病院では働いていない、病院の仕事をなおざりにしている人でもあるとも言えますね。
そして今や学会は半ば『お祭り化』しています。本当に行くべき学会もあれば、???と言うのもあります。頻繁に遊びに行っている方も多いのではないでしょうか?
いいリハビリテーション病院って?
最近までたくさんのリハビリテーション目的の患者さんを紹介してくれた病院からぱったりと患者さんの紹介がとまった。
『先生の病院は丁寧にリハビリテーションをしてくれて、患者さんの満足度も高いし、我々もご紹介したい病院なのですが、転院するまでの待ち日数が長いんですよ。我々としては在院日数の関係からすぐにでも転院可能な病院を選択せざる負えないんです。』
と言われました。以前もお話したように急性期病院では1日でも在院日数を短くしたいし、実際そうしないと成り立たないことはよくわかっています。
いまやいかに『1日でも早く転院できる病院』こそが医療界ではいい病院なのである。でもね、そういった病院ってたいした哲学がなくやっているところが多いんですよ。
とにかく病床を満床にして収益をあげたい
なるべく長くいさせて稼働率をあげたい
リハビリテーションは訓練士に丸投げ
とか。
私はなるべく『質』を維持したいので、譲れないところは譲るつもりはありません。一旦この『質』を下げると取り返しがつかないことになります。悪貨は良貨を駆逐してきます。
丁寧にかつ良質な『リハビリテーション』を提供していきたいと思うし、『あそこでリハビリテーションを受けたいので他の病院は行きたくないです。』と言ってもらえ続ける病院を維持して行きたいと思います。
リハビリテーション専門医
リハビリテーションを専門とする医者がまず目標とするものは『リハビリテーション専門医』という資格。
私も所持はしているが、特に自分に対してのメリットはない。
メリットと言えるかどうかは知らないが、今後若い医者が仮にリハビリテーションを勉強したいという気持ちになった時に、リハビリテーション研修としての場所を与えるために、『指導医』という医者が必要なのだ。『指導医』の資格を取るためにはまず『専門医』をとらなくてはいけない。だから自分自身も専門医の資格を取るときに指導医が常駐する医療機関で4年間、研修させてもらった。だから現在、自分が指導医となり若い医者が勉強できる環境を作っている。現在も一人専門医を目指している医者の指導(?)をしている。
しかし、専門医だからと言ってすごい医者というわけではない。とんでもない偽善者がたくさんいるのも確かである。
高次脳機能障害の患者さんを人間的な扱いをせずに、研究材料として論文ばかり発表している医者。
『研究が忙しいから患者を俺のほうに送るな。』と外来中に切れる医者。
日本には現在2000人程度のリハビリテーション専門医がいるが、すでに定年でほとんど働いていない医者、上記のような偽善医者、とりあえず資格だけ取っておくかという医者を除くと、リハビリテーションに本気でかかわっている専門医は600~700人くらいと思われる。都道府県でみれば1件に10人くらいしかリハビリテーションを語れる医者がいないのである。リハビリテーション科は地味な科なので後継者はなかなかできづらいのが事実である。
なにはともあれ日本のリハビリテーションを発展させるためには、患者さんの最大能力を引き出せるリハビリテーション医の養成ではないかと思われる。いわゆるリハビリテーション職として挙げられる理学療法士、作業療法士、言語聴覚士だけではリハビリテーションは語れない。前にも書いたが、全体をまとめる役割が必要なのである。その役割こそリハビリテーション専門医である。そういった医者が一人でも増えたらいいなあと思っている。